プロローグ


 DTM作曲というスタイルに移行してからこの春で4年が経過し、大げさではあるがいよいよ5周年に向けての足音が聞えてこようとしていた。
同時に、2013年の春で学生生活を今度こそ終えようとしているという状況でもあった。
そんな中、2012年秋、これまでの音楽活動史上最大のチャンスが到来したのである。
それがこの「学生作曲家選手権2013」だった。
久々に健常者に混じった挑戦であったうえに、コンテストの規模、審査にあたられる作曲家の先生方の顔触れも目を見張るものがあり、考えただけで武者震いを起こしそうな感覚であった。
同時に、これまで何度となく定期的にDTMの形でも挑むことのできる作曲コンテストをあれこれと探し続けていたが、本領を発揮し、最善の形で挑戦できる手段である者が非常に少なかったりなかったりという現状を抱えていただけに、今回のチャンスを取り逃すと確実に損をするような気がしていたことも確かだ。
もちろん、、一歩目を向ければ非常に厳しい線上の場であり、みんな自分自身がしのぎを削り、本気に本気を出して作った楽曲たち(今後、こうした楽曲をあえて「神曲(かみきょく)と呼ぶこととする)をこの場に最低1曲以上持ってきて当たり前という状況になってもおかしくないとの考えまであった。
そのため、普通に考えれば、エントリー曲数が最低でも何百局単位になることに加え、何らかの賞に該当しないことを想定するのが先であるというのが正しい考えだろう。
当然のように私自身もそういう考えであった一人であるし、一人でも多くの方々に自分の楽曲について知ってもらい、聴いてもらえるまたとないチャンスであるのが一番という考えだった。
しかし、その一方で、リアルでは非常に最悪な現状を抱えており、転落への道を驀進せざる得ない状況に置かれていた。
そんなこともあり、このリアルにおける悪循環を少しでも食い止められる起爆剤が必要不可欠であった。
そこで浮上したのが今回の挑戦であった。
学生生活の集大成の意味合いもこもっているが、何よりわずかでもよいので、どん底脱出につながる手掛かり、いわゆる「今後につながる可能性」を得るため、ここで絶対何らかの賞に該当しなければいけない、そんな気の持ちようで臨んだことは確かである。
「もう私には後がない!」という愛言葉を自分に掲げ、ほぼ何の迷いもなく再び自分の限界に挑戦する決断をしたのである。
とはいえ、自分の書きたい世界観としっかり向き合い、その中で作り発表し、聴いてもらうと同時に、自分自身も他の人たちの曲に触れて刺激を受ける…
そんな日々の中で、かけがえのない出来事があまりにも多く、自らの感性を磨くための予期材料となっていった。
そんな思い出深い今回の挑戦について、せっかくなので記録に残していこうと思う。


第1章 コンテストを知るきっかけ
 これを知るきっかけとなったのは、10月上旬のことである。
私が登録している音楽コンテストのコミュニティに、「クレオフーガ」というサイトがあるが、たまたまTwitterを眺めていた時に、突如としてこのツイートが飛び込んできた。
そう、クレオフーガからのツイートで知ることになったのである。
それを知った時、確かに私の中で大きく何かが切れるような音がした。
そして、募集要項を眺めては、「マジで!」と一人部屋で叫ぶ自分がいたのである。
もう少し具体的にしてみると、ボーカルあり、ボーカルなしの2部門制で、その中で細かくジャンル分けをするわけではないということ。
つまり、特定のジャンルに関しては出せないとか、ボーカルありの場合は、ボカロの使用有無も問わないという条件である。
そう、自信作、もっと聴いてもらいたい曲であれば何でもOKというわけだ。
ただし、1部門2曲までという規定は守らなければならないため、仮に自信作が多い人であれば、投稿楽曲をどれにしようかをある程度絞っておく必要があることになる。
そして、もうひとつ目を見張るのは審査員の顔ぶれである。
その中には、私の作曲におけるバックボーンになったであろう方の一人、服部克久さんの名前が審査員リストの中にあったのだ。
これはどういう状況であれ、挑戦しないという選択肢にはならないと、ほぼ無謀のまま軽い気持ちで挑戦を決断するにいたったのである。
このエッセイは、その時の手記を13ページにわたってまとめたものである。



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