第1章 コンテストを知るきっかけ 第2章 過去の失敗といくつかの問題 html 第4章 挑戦前からの心構え 第5章 曲とのにらめっこ(完成まで) 第6章 曲とのにらめっこ(完成後) 第7章 予想以上の反応 第8章 心に残った楽曲たち 第9章 運命の決勝大会

第9章 運命の決勝大会


 さあ、とうとう私にとっての運命の時がやってきた。
私は、コンテストが開幕してからこの日が来るのをどれほどまでに心待ちにしていただろうか。
音楽に携わってからちょうど20周年が経過したばかり、作曲を始めてからは間もなく14年、DTM作曲に本格移行してから間もなく4年、そして何より学生生活最後の集大成……
私にとってのこれまでの音楽活動史上最大の緊張と運命の瞬間がついにやってきた。
少なくとも、今後の音楽化人生を左右しかねない可能性があるとの認識が強くあっただけに、人一倍心臓バクバクになっている自信だけはあった。
決して他の実力者のような力はなかったがゆえに、いろいろと悔しい思いをしたり、散々な目にもあったり、苦渋の決断をする羽目になったことが少なくなかったが、それぞれの時期にそれぞれ特徴的な色を持つ時期があったことは確かだ。
親とのピアノ練習が苦痛でレッスン曲をほぼまったくに近いくらい練習しなかった小学生時代、その日々の中で作曲に目覚めた高学年ごろ、3分の2の日々をバンドに没頭した中学時代、
一番ピアノに対して本気だった高校時代、極度のスランプや試行錯誤の結果DTMに目覚めるにいたった大学時代、そしてあまりのはまり用に不器用ながらも必死に勉強の裏でこそこそと技術を磨いていた専門学校(理療科)時代。
思い起こせばいろんな出来事が浮かんでくるが、良くも悪くも転換期となった出来事がいくつかあったことも事実だ。
作曲に目覚めた小学5年終わりごろ、中学2年頭から経験したバンド活動とその中でのステージ、
同じ学年の11月には10年間それまで習ってきたピアノをやめる苦渋の一大決断というのもあった。
ピアノを習っていたものの、発表会をやらない教室だったため、高校時代にして初めて自作曲で大舞台に臨んだことも、今となれば懐かしい思い出である。
しかし、高校時代の恩師だったピアノ専門の先生が諸般の事情で退職されたころをめどに私自身の状況自体も苦しくなり、遂には大学入学後まさかのスランプに苦しむ羽目にもなってしまった。
まさか、4年のうち3年も苦しむことになるとは…。
それも、2006年と2008年には1曲も作れずに終わるというありさまですから、かなりの重賞っぷりがうかがわれる。
しかし、21歳の春、諸熊氏とその仲間たちで立ち上げたサークルがきっかけで転機が訪れ、今に至っているのである。
底からの4年間は、とにかく少しでも健常者に負けないハイクオリティな曲を作れるようになるため奮闘する日々だった。
しかし、下記のような状況がかえって私自身にとっての「人生最大の賭け」という認識を強くしていたのだろう。
リアル、とりわけこの専門学校時代の3年間は、学校、家庭ともに悲惨極まりない状況で、時には勉強と音楽との釣り合いがとれなくなったり、時には天地をひっくり返されるような出来事に何度も襲われたり、
また時には音楽に向かうことをしばらくの間忘れてしまうようなことも少なくなかった。
このエッセイを執筆した2013年春の時点でも、リアルについては「転落」の2文字がちらついている状況が続いており、更に天地がひっくり返る現状に卒業後置かれることが既に決まってしまっていた。
それもそのはず、前項までに記してきたとおり、理療科時代は自称だめ学生で、卒業して1年半以上たった今だからこそ言えることかもしれないが、鍼灸マッサージの技術を磨くよりもクリエーターとしての自分を保つためにこちらを優先して技術を磨いていたようなひどい有様だった(待てこら)。
しかし、たとえリアルでふがいない状況、散々な状況に置かれても、音楽だけはある程度は肝を座らせることができ、且つ向上心が衰える事態にもならずに、這い上がってやるぞの精神で続けられたという確かな事実だけはそこにある。
これだけは前向きな自分を貫いていられるんだという自信につながってもいた。
それだけに、これだけはなにがあっても自分を信じようと自分に言い聞かせながら、この日を待つようにしていたのである。
それだけに、今回受賞を狙えるか否かは、私にとっては一つの「かけ」なのであった。
事実、「人生そのものがかかってる」とまでの意気込みを持って取り組んでいた。
イベント直前まで、受賞された時の喜びが計り知れないものになるだろうと予想していたと同時に、選ばれなかったときのショックも今回ばかりはいくら厳しくて狭き門だとはいえ、最悪納得がいかない程度にまで及ぶだろうと予想もしていた。
逆に、この場合ふっきれるという可能性も考えられたが…。
まあなにはともあれ、人生最大のかけと化していたことは事実である。←本当は、音楽活動人生最大のかけと言うべきだったのだろう。
前にも記したとおり、私は期末試験&国家試験を優先するため、決勝大会には不参加になったが、Ustreamでネット生中継があるとの情報を得ていたこともあり、会場にいるに近い心境でPCの前で心臓バクバクになりながら発表の時を待っていた。
もちろんその時間帯には何の予定も入れないようにしていたし、緊張がすさまじくなったり、生中継で興奮する可能性が90%以上考えられたので、勉強もそれに合わせる形で進めていた…はずだった。
なんと、本番数日前になり、肖像権等の問題からUstream配信が行われなくなったとの連絡がTwitterを通してなされたのである。
ただ、結果として幸いだったのはその都度、当日の結果の模様がTwitterで流れていたので、どのようなことになったかだけはわかることができた。
 こうして迎えた2月3日、言うまでもなく朝から緊張モードだった。
コンテストに参加された方々のツイートを見れば見るほど、その緊張感は強くなっていった。
勉強しないつもりだったのだが、なにを間違えたか勉強に手がついていた私。
けれど、決勝大会がスタートする1時半が近くなればなるほど、徐々に集中力も奪われていった。
 1時半、さすがに落ち着かなくなり勉強をストップ。
Twitter上からその戦況を見つめていた。
しかし、受賞曲や佳作など複数の楽曲が該当している場合、細かい内容はツイートされてこなかったので、表彰式が終了した時点で、一概にどうと言うことはできなかったが、その段階ではまだ自分の曲と名前は発見できなかった。
 それから数時間後、Twitterにて、「翌日午前0時にすべての結果を発表する」旨のツイートが入ってきたが、予定の時刻になっても結果発表が行われなかった。
どうやら、準備に時間がかかっていた、もしくはサーバートラブルらしかった?という風のうわさ?があり、発表があと1,2時間程度遅れるとのことで、翌日学校があった私は、まずは眠りに就くことにした。
 翌朝、案の定結果が公表されていた。
残念ながら、私は目指していた賞の受賞を逃してしまった。
いいえ、そればかりか、たとえ受賞を逃していても、最終選考まで残った楽曲であれば無条件で表彰される佳作にすら手が届かなかったのである。
改めて、コンテストと言うもののシビアな世界を思い知らされたうえ、本気を出しても思うような結果が得られなかったことに対し、今回はかなり重く受け止めざるを得なかった。
すべてをかけて、また今後の音楽活動人生もかけて、更には「ノータイトルという結果はいらない」と言わんばかりの意気込みで望んでいただけに、個人的には納得のいかない結果となってしまったのである。
ただ、消化不良の状態ですべてが終わらなかっただけ、後悔そのものは少ない方だった。



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